このところ2回オカルト系チューニングについて記載した。
そこで問題となるのはプラシーボである。
効果がある・ないという議論の中で必ず出て来る。
いわゆる「気のせい」というモノ。
エアフロに装着した時のように数値として表れれば根拠となる。
しかし、体感のみで数値に表れない場合はプラシーボという事も当然あり得る。
が、仮にプラシーボだとしても精神衛生上宜しいのなら・・・それはある意味で問題ないだろう。
気分が良いというのは重要な要素である。
そういった意味合いを含めて否定はしないのだが、論理的にとなると話は別になる。
それが議論となってしまうのだ。
体感したから効果があるならば論理的な根拠を。
逆に否定するならその根拠を・・・という感じになってしまう。
そこで、逆の視点から考えてみよう。
論理的な根拠を出せないのに確実に体感したというような場合はどうなのか?
良くなるだろうという「思いこみ」があるというのは代表的な例だろう。
その際に、アクセル開度が若干大きくなってしまうとかね。
でも、回転数をチェックしたよ?という場合もあるでしょう。
そこで出て来るのが ECU マジック。
バッテリーターミナルを外してしまうと ECU がリセットされる事がある。
再接続した時は今までの学習が全て無くなっている事になる。
それによって、違いを感じて勘違いをするという事も考えられる。
再度学習した時にはその感覚に慣れてしまったと感じ、その後は「思いこみ」にと。
こうやって考えてみると、効果があった場合は何らかの数値で示す必要があるね。